昭和52年11月02日 朝の御理解
御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられる。」
「これ程の信心」という、「これ程の信心」を検討してみなければいけない。そして「これ程」の内容というものが、こんなにもお粗末で貧弱であることが分かったら、不足は出ません。同時に「一心の信心」を、これはまあだ自分の信心が足りぬのじゃと思うて、そこからの「一心の信心」というのは、ただお参りに力が入った、お参りができると言った様な事だけではなくて、一心の向け所とでも申しますか、一心の心の使い所とでも申しますか、そこん所をいよいよ検討して行かなければならんと思うですね。
本当に「あれもおかげ、これもおかげ」と言う事を、色々感じさせてもらう。そしてそれがおかげと言う言が、いよいよ深いものに広いものになって行く。昨日も私記念祭の時の、まあ色々なことを、神様のまあ言うなら一分一厘間違いのないお働きの中に、おかげを頂きましたが、まあようも本当に、あの駐車場が出来ておったなと言う事を思いましたら、カチッとここでおいさみを頂きました。一遍二遍じゃない、いつも思いよるとそれ。まあよう本当に駐車場が、上にあんな広々と出来ておったもんだと。
あそこに駐車場を作ろうなんて初めから思いもしなかった。勿論霊園を作るというので、霊園がそのまま今度は駐車場に使われたわけなんです。これはもう本当に十年前のこと、二十年前のことを思うてでも、本当にあの時のおかげというものはというおかげをね、思い出し思い出ししておりますと、有難いというものがいよいよ深うなってくるのです。これはもう日々の上においても、一日を締め括った時に、神様のあのお働きを思うにつけても有難いなあ、とお礼を申し上げる心。
そしたら神様から「薩摩守」と言う事を頂いた。あの汽車をただ乗りなんかするでしょう。あれを「薩摩守」と言うんです。切符を持たずに乗車しているわけ。いわゆる「薩摩守を決め込んだ」というふうに申します。「薩摩守」と言う事は、ただ乗りと言う事だと私はすぐ思うた。ただ乗りと言う事はどう言う事かと言うと、私が感じておる所は、その程度でしょうけれども、本当言うたらもっと深い広いに違いないけれども、本当にあれもおかげであった。これもおかげであった。
まあ何と神様のいつものことながら、御演出の素晴らしさにただ恐れ入ってしまうという感謝の心。その感謝の心、喜びの心が素晴らしいんです、信心さして頂く者は。何かを特別にお願いしておった事が成就したから有難かったと、いうものですけれども、本当に、気が付かなかったところに気付かしてもろうて、「あれもおかげであった。これもおかげであった」と。一分一厘間違いのない働きの中に、言うならば十年祭、十年という記念の御大祭が奉仕された。
そういう間違いのないおかげの中に、お互いはご縁を頂いて、信心の稽古もしておる。あの御大祭も拝ませてもろうたわけなんです。だから私が頂いておる言うならば、おかげの乗り物とでも申しましょうか。乗り物のお知らせを「徳」とそのお徳の汽車に、皆一同が乗らせて頂いたわけなんです。千数百名のいうならばご参拝の人たちが、私が頂いておる、言うならばお徳の車に乗せて頂いた。それただ参った素晴らしいお祭じゃった。おかげを頂いただけで帰ったのでは、これは「薩摩守」ですただ乗りです。
もっともっと広く深く、本当に神様の御演出の素晴らしいお働きの中に、お参りが出来たんだ。御用が出来たんだ。と言う事を分かれば分かる程、本当に恐れ入ってしまうと言う事になる。これは御大祭だけのことではありません。もう日々がそうです。合楽という例えばここに車があるならば、合楽にご縁を頂いておる者すべてが、その合楽の言うならば、お徳の車に乗せて頂いておる。言うなら私の圏内にある人たちはみんな同じ事が言えるのです祈りの圏内。
そこで言うならば、どれ程お礼を申し上げても足りない。それこそ末永先生じゃないけれども「本当に限りない親先生のお祈りの中にあるんだ」と実感する。実感するから「親先生有難うございます」という日々になってくる。勿論「親先生有難うございます」と言う事は、「金光大神様有難うございます」「天地金乃神様有難うございます」と言う事に通ずる通う「有難うございます」である。そういう「有難うございます」の中にです。そんならば、私共がどうあらなければならないかと言う事になるのです。
そういう「有難い」というものをまず頂き、分からして頂いて、いよいよその神様のお心に添い奉ろうとする、精進がなされなければならない。為にはまず、神様のお心が分からなければならない。そこにお参りをする。お話を頂くと言う事になる。お話のすべては私は、天地の親神様のお心だと思う。だから分かればおかげになるというのは、親神様のお心が分かるから、親神様の心に添い奉ろうと精進する、ところにおかげが頂かれる。同時に神様のご恩恵、いわゆるお恵みのものに対するところの頂き方、というものが自ずと変わってくる。
甘木の親先生辺りの、言うならば「神様の御恩徳というものが分かれば分かる程、枯葉枯れ枝一本一枚だって、徒や疎かには使われんぞ」と言っておられる。私共でもやはり、徹底したことは出来ませんけれども、一すくいの水にでもお礼を申し上げなきゃおられない。また、大切にしなければおられない。ここでは、事柄ということに御の字を付けてとこう。どういうような事柄であっても、それが神様の働きと知ってみればです。その事柄に御の字を付けて、御事柄として頂き、拝しなければおられない。
あれもおかげである惟もおかげである。本当に一分一厘間違いのない働きの中に、今日も合楽のお徳の車に乗せて頂いておる、と言う事に心の底からお礼が言えれる。親先生の本当に祈りの圏内にあって、こういうおかげを頂いておるんだと心が神様へ向かう。そのお礼の心がです。それなら言わば報いる心に?がって来なければならない。それが本当の有難いでただ口だけで「有難い」と言うたのではいかん。その報いる心が精進になる。その報いる心が神様の御働き、神様の御物をいよいよ徒や疎かには出来ない。
昨夜もここ二三回、月次祭に裏には大きな電気をもうズーっと付けて、新館の方の廊下にまで一杯電気が点いとる。あちらには非常の電気が点いとるから、電気はいらないのです。だから、誰が点けよるじゃろうか、度々あんなに点けてと思うて、昨日全部消しにやりました、裏はどんなに暗かったっちゃなあにしよらんとじゃから、お祭の時には、細い電気が一つ点いとりゃそれでいいわけなんです。
それに満艦飾のごと一杯ズラーっと廊下に、私も消して回りましたけど、新館の方は私はどこで消したら良いか分からんから、言うてから消さしました。そして御広前に出てくると、御広前関係には点いとらんとこがある。第一御広前関係は、ここは夜のお祭ですから、外灯から表は全部点いとらなきゃいけない。障子を開け切っておりますから、開け切っておるそこの研修室であろうが、信者控室であろうが、事務所であろうが、楽室は最近私の部屋までも半分使いますから。
楽室の私の控まで電気が点いとらなければ、こちらから拝ましてもらうのに、薄暗く見える。だから私はいつもそれを言うんです。だからね大切にすると言う事は消して回ることだけではない。それを十分に生かすと言う事なんです。生かすと言う言が大切にすることなんだ。だからこと必要であるというならば、百燭光は万燭光でも点けてもいいのである。また点けなければいけんのである。だから点けなければいけないところを、言うなら点けてないことは、神様の働きを殺すことになり。
点けんでも良い所を点けておるのは無駄な事によって、神様の言うなら御恩恵のものをお粗末にしておる事になるでしょうが。もう二階は皆こっちへ降りて来ておる筈だから、二階に電気が点いとるという筈はないのに、二階に明々と電気が点いとる事がある。こんなお粗末な事はない。こんなご無礼な事はないのですよ。今日はここん所をしっかり分かってもらわんとです。私が昨日一昨日から言っておる所が分からんです。神様にはもうとにかく縋らなければおられないと言う事。
それは親であり親神様であると言う言が分かれば分かる程、縋らなければおられんのである。願わんでん頼まんでん、ちゃんとおかげを下さると言う信心から、もう一歩前進して「成程親神様じゃなあ。親様じゃなあ」と分かれば分かる程、縋らなければおられない。縋る事によって言うならば、張りに張っておるお乳を頂くようなもんですから、神様も楽になれる。神様も喜んで下さる。それを頂く乳飲み子もやはり、お腹一杯のお乳を頂く事が出来るというのですから、両方共におかげを頂く事になる。
そしてもう本当に全て頼むとか願うとか、「用のある時だけお願いして済みません」というお願いではない。親である言が、親神様である言が、その関わりあいが分かれば分かる程、それが密に分かってくれば来る程に、実を言うたら、すがらずにはおられんのが私達。私で出来ると言う事は、こんなこた頼まんで良かちゅう事はいっちょもありゃせん。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんことが分かると同時に、その神様が親様であり、親神様であると言う言が分かれば分かる程、願わずにはおられん。
すがらずにはおられない。縋ったからと言うて、それならそれが右左はもう、あなたに任せ切ってある事。昨夜のお月次祭にそこん所を皆さんに聞いて頂いたんですけれども、例えば親が自分の子供の例えば悪い事をしたのがおったとしましょうか。「うちの息子はこげな悪い事をしました」と言うて吹聴する親は誰もおりゃしません。むしろそれを、隠しておきたいのが親心です。言うならばかぼうてやりたいのが親心です。
私は神様のおかばいを受けると言う事を、昨日程ははあ成程私共は神様のおかばいを受けておるのは、親神様のお心がいよいよ、まだその深く広くと言う事じゃないけれども、神様のお心が分かり、親神様の働きに縋らなければおられない最近の自分の信心を思う時にです。いよいよそれなら親と子としての生活の上に、それを頂いておる。私昨日は、お月次祭を下がらして頂いて、部屋に入っとりましたら。
椛目の娘達夫婦がやってまいりました。どうしたことじゃろうかと思うたら、今日お説教の中に、親先生が今村和子さんが昨日頂いた「二人行脚」と頂いた、とこう言うんですよ。なら「二人行脚」とはどげん書いてあったのちゅうから、二人の行なう脚と書いてある。それで私が「ににんこうぎゃく」と言うてみなさんに聞いて頂いたら、椛目の娘たちが二人で来てから、「あれは親先生、あんぎゃと言わねばいけない」と。「行脚」と書いてあんぎゃと読む。
だから「ににんあんぎゃ」と言った様な言葉はありませんでしょうけれども、やはり「ににんあんぎゃ」と読まなければいけない。と言う事を教えに来てくれた訳でした。まあ本当に学問がないと、時々妙なことを言うなあというわけですけれどもね。いわゆる二人行脚なんです。もう親様と私共がいつも絶えず一緒にあるのです。だから一緒にあるのですから、どんなに囁くような言葉で言うても分かるわけです。
「すいません便所にやらせて頂きます」「すいませんお水を使わせて頂きます」もういつも絶えず、神様と囁き合っておるという生き方。それを「同行二人」と言うふうにも申します。「われ神と共にあり」と言うふうにも申します。それが実感としてです。二人行脚の言うならば信心が、だんだん、この頃自分ながら出来て来た様に思う。出来て来たらもう側にいつもおりなさるのだから。
いつもそれこそある場合には囁くように、ものもの言う様に「神様今からこう言う事を致しますから」とやっぱり願わずには、縋らずにはおられんのです。そこで本当の親子という、親子らしい親子に段々なって来るに従って、私共のような不行状者でもです。神様がその不行状を不行状とせずに、それをおかばいにおかばい立てを下さって、言うなら、出来んけれども出来たかのようにしておかげを頂いておるのが、今の合楽のおかげです。人間ですから言うなら、神様が目に角立ててズーっと見守ってござる。
そして「そこが間違うとる。そこはいけんじゃないか」ともうその、付け着いて言いなさる神様じゃないということが皆さん分かるですね。生身を持っておる人間のことでございますから、どこに御粗末が御無礼があるやら分からんけれども、それを願ったり詫びたりしていつも、二人行脚の信心が出来ておるところからです。本当の親子の情というものが交流してくる。そして悪いところがあってもです。
それを神様がかぼうて下さってのおかげになってくるから、出来んけれども出来たかのようにしてのおかげが、今日の合楽のおかげだと言う事になるのです。「これほど信心するのに、どうしてこのようなことが起こってくるであろうかと思うたら、信心はもう止まっておる」ということではなくて「これほど信心するのに」というのが、どれ程親神様を親神様と立て抜いておるかと。
「これほど信心する」というのに、それならどれ程親神様の御働きを、親神様の御物を大切に大事に取り扱い、またそれを合掌して頂いておるか、受けておるかと言う事を思うたらです。もうおかげの受けられないはずの方がはっきり分かってくる。電気一つでも、点いとるとが平気でおれれるというか、うかつにしておるという、こんなご無礼な事はないと。そこでです。皆さんがね、本当に天地の親神様を親神様と、皆さんが分からせて頂く為に、実感を以て分からして頂くことの為にです。
まず神様の御働きそのものを、どういう些細なことであっても、御事柄として受けぬいて行くために、二人行脚の信心が出来なきゃならない。どういう例えばそれが一粒の米であっても、一すくいの水であっても、それを押し戴く頂き方というものが出来なければならんのに、それこそお粗末御無礼がどのくらいあっておるか分からないことを、自分の生活の中から発見して、こういうお粗末御無礼なこと。これは不思議です。本当に心を込めてです。言うなら、だから絶えず信行が出来ておらなきゃいけない。
ですから、それをお粗末にせずにはおられないその心がです。もう何と言うでしょうかね。深い喜びに誘うてくれるです。言うならもう滋味豊かと言うですが、もう言葉で表現出来ないです。一遍押し戴くところを、三遍押し戴く稽古をしてご覧なさい。そこから私があの湯桶半分しか使いませんお風呂へ入って、そしてその湯桶半分のお水を三回私が頂くんです。一つは天の神様、一つは地の神様、一つは金光大神様と言う風に。だから聞きよってから馬鹿んごたるかも知れません。
とても金光様の信心ちゃ、そげんせからしかならちゅうごたるかも知れん。けれどもね、そうせずにはおられないのが私なんです。人にせろじゃない、そうせずにはおられんのだ。親神様にすがらずにおれないと言う事と同時にです。神様の御物をです。御事柄をそうして合掌せずにはおられないという、その心がいよいよ神様との交流になってくるんです。だから間違うておっても間違っていないかのように神様がおかばい下さる。もういよいよ親と子としての名乗りが挙がっておるようなもんなんです。
親神様とは言いながら、親神様の心を心としない。親神様の言うならご恩恵の物を、ご恩恵の物とも思わない。神様の御働きそのものを、神様の御働きとも思わん。「どうしてこげなことが起こったじゃろか」と言った様な事では、だからいかにおかげが受けられないか。いやそれでは神様との交流がないかと言う言が、皆さん分かるでしょう。神様との交流をです。今私が二三日言っておることを皆さんがどうでもです。もう本当にこの神様には何時もすがらずにはおれないという、いわゆる実感としてね。
縋らずにはおられない信心を、頂かれることの為にです。まず神様の御働き、神様の御物を、もっともっと大切にすることを、実行してご覧なさい。そこからです。言うならば豊かな喜びが許されます。その豊かな心で思うて見ると、ふと目をつぶっただけで、あれもおかげであったな。これもおかげであったな。もうそれこそ同じことですけれども、まあようも記念祭前に、あの広々とした駐車場が、出来とったもんじゃあると、思うただけでも感動する。
頂いておるおかげは沢山頂いておるけれども、それがもう段々おかげを頂くに従って、希薄なものに薄いものになってきた。所ではない思えば思う程、まあ様もようも神様が、こういう素晴らしい演出の中に、こういうおかげを下さっておったなあと分からしてもらう時にです。言うならばその喜びが「薩摩守を決め込む」と言う事ではなくてです。神様にその喜びというか、そのお礼というかが、私はおかげを頂いておる者がお礼を言うその心がです。言うなら汽車賃を払った事になるのじゃないでしょうか。
それを有難いとも言わず思いもせん。分かりもしておらん。それは言うならば薩摩守を決め込んでおる日々。言うならばお礼の足りない日々であると言う所からです。成程是ではいかに天地金乃神様を親神様と言うておっても、親としての働きが起こってこない。心の呵責というのは、神様から許されてない証拠です。けれども神様がかぼうて下さって、出来とらんけれども、出来とるかの様におかげを下さるというその心がです。
親なればこそ子なればこそであり、昨夜のご理解にも申したように、「親は子薬、子は親薬」と言う様な、もう言葉では表現の出来ない。なら現代医学ではどうにも出来ない。ただ、親の顔を見ただけでも良うなったごたる気色がする。子供の言うなら顔ば見ただけで、言うならば体が軽うなるようなおかげが頂かれるわけ。それにはまず今日は皆さんに聞いて頂きたいところは、もうもっともっと神様のお働きを大事にしなければいけない。神様の御物を大事にしなければいけない。
もう部屋を出る時は、電気は消して来にゃでけん。それは始末倹約じゃないです。神様の御物をそんなに無駄なことに、お粗末に使うちゃならん。と言うて、さあお客さんだ。さあ今日は電気が光がいるという時には、もうそんくらいで始末しとけてなんてん言わずに思わずに、それこそ満艦飾のように光を点けてもいいのだと言う事です。無駄なことは許されない。それではね。
神様の心と通わん、いつまで経っても。だから信心というのはしみったれになれと言う事ではない。使う時に人が使いきらんような事でも、なんぼでも使うていいのです。お金でもそうです自分の事にはそれこそ一円の金でも割って使うように、殊神様の時にはそれが億万の金であろうがです。もうそれこそ惜しげもなからにゃ、悪しげもない使い方の出来れる信心。
そこから神様とのいよいよ交流があります。「これはまあだ信心が足りぬのだと思うて、一心と信心をして行けば、そこからおかげが受けられる」というその一心の今日は向け所をです。神様とのいよいよ交流を密なものにするためにです。神様の御働きをいよいよ大事にしなければいけない。神様の御物をいよいよ大事にして行くと言う所からです。初めて言うならば、神の心を心としての信心が出来るわけですから。
神様のお喜びがこちらに返ってこないはずがない。そこに滋味豊かな喜びに浸っておれることが出来れる。その喜びで奉仕をする。その喜びの心で信心生活が出来る。これでおかげの受けられないはずがない。それこそそこから先は、願わんでも頼まんでも、神様がおかげを下さると言う事にもなりましょう。そういう喜びに浸っておられるということにもなります。
「これほど信心するのに」と例えば、私共がどれ程の信心が出来ておるかと、まず思うてみなければならない。これはまだ足らんと思うて一心と信心をして行くという、その一心の焦点をです。今日は神様の心を心として、それをまあ、御物としての頂き方。または御事柄としての頂き方を、もっと水も漏らさんような密なる頂き方の稽古をさしてもらわなければならんと言う事を今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。